「人と街との接点」
臼井洋司
絵がチョッと得意な若者が、産業デザイナーを志していた。
そんな彼が、何気なく上野の西洋美術館で遭ったのが、その美術館の設計者ル・コルビュジェの『シャンデガールの都市・建築展』。
この時を機に、若者の志は建築設計へと向かった。

私が建築設計を一生の仕事にきめた動機を、懐古調に語るとこんな風でしょうか。
その後、幾多の紆余曲折がありましたが、23年前、この設計事務所を開くことができました。
よく聞かれることですが、その時、冠にしたのは”像”の一字。
これは「仏師、仏像を彫む」ごとく、心を込めて形象化したいとの思いでつけた私の大好きな文字で、今も私の原点であり、基本理念になっています。

あれから随分と長い時間が流れました。
振り返ると、1980年代後半より、建築設計の分野も大きく変化してきた感がします。
それまでは、設計室でのものづくり。それが私たちも街に出、人々も街づくりに参加し、環境を論じる。
また、新しいものづくりだけでなく、再生する、持続するものづくり、そのプログラムづくりとフォローの計画など、当たり前だったことが見直されてきたのです。
建築物は、長生きする生命を得、変貌し、人々の生活を吸収し得るようになりつつあります。
地域における施設の誕生までの経緯、街づくりの見直し、学校づくりの変化など、これからも建築設計を取り巻く世界は、その原点を求め大きなうねりの中に生きていくのでしょう。

幸いなことに、この20数年間、幾多の仕事に恵まれました。
私どもの特徴は、この仕事の多様性にあります。これらの仕事が種となり、経験を積むことで設計力が芽となり、多くの建築物が実となり結実してきたのだと考えています。
この成長の過程でも、私どもは、”ひとつの仕事は唯一の仕事”だと考え、その都度ゼロからのスタートを心がけてきました。
それが、仕事に感動と発見と提案をもたらす根元と考えるからです。
各々の仕事にオリジナリティを求め、形づくりをしたい。この思いは、スタッフ選びにも深い関わりを持ってきます。
仕事の性格とスタッフの個性、相性を尊重し調和させたい。
そんな思いからですが、いつも葛藤するところでもあります。
私どもの基本は、スタッフ全員で仕事の受注から完成後のフォローまでを念頭に置いた設計活動を心がけることです。それは、仕事をいただける、仕事にたずさわれる喜びや責任を感じ、注文者の心を理解し、仕事に打ち込むためと考えているからです。
しかし、打ち込んだ仕事の中で個性を発揮できる設計活動のためには、私ども個々がもっとレベルアップしなくてはなりません。
ものづくりの基本である造形や色彩などの創造力を深く取得し、感性を高める努力が、限りなく必要だと切に考えています。

磯子へ移ってから、いくつかの目標を立てました。
その一つに磯子祭への参加があります。
毎年秋、無料建築相談の看板を立て、ポテトフライ店を出しています。
これも設計の”から”にとじ籠もることなく、社会的視野を広げたいと心がけるからです。
また、10年前より続けていることに、オープンデスクがあります。
毎年、5〜6名の学生が参加しますが、私どもが携わる多様な仕事を体験すると同時に、建築設計の可能性を感じてもらいたいからです。

最後に、いつも思い出す言葉のことに触れてみたいと思います。

大学を卒業する頃、大谷幸夫先生にディプロマを観ていただいた際言われた言葉です。
「私もそうだが、キミも自分の創意に酔う傾向がある。私は正反対の自分を前に置き会話しながら設計をしています」と。
仕事の途中、30数年経ても大切にしている一言です。
私にとって、母校・関東学院大学での非常勤講師の9年間は、学生達との対話の中で、それまで我武者羅に仕事にたずさわってきた自分を見直し、新たな展開と可能性の道を開く大切なエポックだと思います。
設計の永遠性と楽しさ、その世界にいる喜びを改めて知ったのですから。
私どもの仕事は街を歩くとそこにあるような複合ビルが多く、それらの仕事は、単に設計図を描くだけでなく、注文者の中に入り、家族、資産、近隣、銀行など多くの相談にあたります。
これらの経験を街づくりに役立てればと考えます。

昨年1年間は、有志と「都市の中の川」の研究をしました。
富山市の松川、三島市の源兵衛川、博多のキャナルシティ、広島の太田川の再開発など、横浜の新たな都市づくりの研究のためにです。

今、私は、設計にこだわらず、一市民として、もう一度、この横浜をガリバーのように、アリのように、見てみたいと考えています。
都市づくりと建築づくり、この間に揺れながら、これからもものづくりにこだわっていくために・・・。


「株式会社 像建築設計事務所・作品集」(建通新聞,2000年)より抜粋